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僕たちは奴隷じゃないブログ

奴隷以下の労働環境から抜け出して、人間らしい生き方を目指すブログです

即戦力求む!!に潜む闇

労働観 日本の風潮

日本の社会はブラック企業で溢れ返っていて、各社様々な都市伝説を生み出している。なかでも求人情報などは特に伝説を生みやすい。「アットホームな職場!!」「頑張れば◯◯万円可能!!!」「若手が頑張れる企業!!!!」などなど、なかなか香ばしいフレーズで溢れかえっている。

しかし何もブラック企業だけでなく、有名な大企業なども「そんなことで大丈夫か!?」といったようなフレーズを、自社の求人情報に載せていたりする。

 

それがいわゆる「即戦力になる人材」という呪いの言葉である。

 

「即戦力!!」

 

はたして即戦力になるような人物は存在するのだろうか。

「即戦力」になる人。そのままの意味でいけば、すぐさま戦力、すなわち入社早々その企業に利益をもたらす人材ということになる。

そんなロールプレイングゲームの勇者みたいな人を、大手企業が平気な顔をして求めているのだ。

まるで勇者になにもかも丸投げする王様のようである。

 

そのようなことを言い出す企業は、金銭的に余裕がないのか、はたまたそんなことに金を出すのは勿体無いとでも思っているのか、とにかく人材を育成する気がないのだろう。

 

「自分たちではなにもしないけど、なんとかしてくれる人、待ってます!」といったところだろうか。とにかく即戦力になる人物などを求めている行為自体、他力本願寺顕如である。そんな企業は一向一揆で滅びてしまえばいいのである。

 

ロールプレイングゲームなら、王様は勇者の成長を固唾を飲んで見守ってくれる(王様は一切なにもしないけど)から、まだマシだ。

企業はそうはいかない。「君が勇者くん!!?はい採用!!入社したらすぐボス戦だから!!!」といった感じ。

こんなので人材が集まると思ってることが、僕は恐ろしい。

 

耳障りのいい「即戦力」という言葉。社会にはこんな言葉で勇者が集まると信じて疑わない大企業が、多数存在するのである。

そんな馬鹿げた企業がたくさんあるのに、未だこういった企業に就職して正社員になることが、人生最大の目標であるかのように言われている。

 

「企業なんてこの程度のモノ」と認識するのも、この地雷原のような社会を渡り歩いていくためには、必要な考え方なのかもしれない。

 

「即戦力」に頼る会社は必ずダメになる (幻冬舎新書)

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生きるために働けない国

労働観 残業 日本の風潮

生きるために働くのに、働くことが原因で死を選んでしまう。

これではまるで、死ぬために働いているようなものである。

 

先日、こういうニュースを目にした。

headlines.yahoo.co.jp

 

男性は勤務していた店舗内で自殺をしていた。

彼の時間外労働は最長で月に274時間に達していたという。

法律で一応定められている労働時間は、月に180時間。それなのに時間外の労働だけで、法律上の労働時間を100時間ほど超えているのだ。

 

このような異常な労働環境で働き続けることが、大人として当然の責務だと思っている人間が、この奴隷大国「日本」にはたくさんいる。そして日本の社会はなぜか、こういう馬鹿な働き方をしたくない人々(いわゆるニートだとかフリーター)には不真面目だとか、そんなことでは社会で通用しないだとか言って、蔑む。

 

プレナス」は彼を自殺に追い込んだ。これは立派な殺人である。しかも個人的な恨みがあるわけでもなんでもない。動機があるとすれば、利益を上げられないような奴は死ね、というところだろうか。おそらく自殺と労働時間は無関係だと主張するだろうけど。

 

それにしても彼は、死を選ぶ前に逃げることができなかったのか。こんな人殺しの会社なんてさっさと辞めてしまって無職になることのほうが、死を選ぶよりも楽だろうに……。

でも彼は逃げることができなかったのだろう。家族がいて、無職に対する周りの風当たりが強くて、そして何より責任感の強い立派な大人だったのだろうと思う。

家族を守ろうと必死だったんじゃないかな。一生懸命がんばってたんだろうな。

そんなことを思うと、本当に悲しくなるし、真面目な人を小馬鹿にしたような日本のくだらない労働観に対して、抑えようのない怒りがこみ上げてくる。

 

正社員になると奴隷のように働かされる。かといって派遣社員契約社員だと世間の風当たりが強い。周りは早く正社員になりなさいと圧力をかけてくる。

仕事がキツいから、辛いから辞めたいと周りの人たちに言っても、もうちょっとがんばろうとか、辞めたところで簡単に仕事が見つからないよとか、もっと辛い思いをしてる人はたくさんいるよとか言って、親切なんだか追い込んでるんだかわからない。

 

いったい僕たちはどのように働けば幸せになるんだろうか。

 

休むことは許されないのだろうか。

 

殺人罪を犯したプレナスには、厳しい刑罰を与えてもらいたいが、おそらく書類送検と損害賠償くらいで終わっちゃうんだろうな。

悔しいけど。

 

 

 

過労自殺 第二版 (岩波新書)

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過労死・過労自殺大国ニッポン―人間の尊厳を求めて

過労死・過労自殺大国ニッポン―人間の尊厳を求めて

 

 

 

 

エスカレーターに見る偽善に満ちた日本人の心の美しさと、日本の悪習

日本の風潮

最近すごく違和感を感じる事がある。

日本人のエスカレータの乗り方に関する、逆らいづらい暗黙のルールについてだ。

大きな駅などに設置されている、少し長めのエスカレータを見ると、気持ち悪いくらい全員が左側に寄っている。正直、めちゃくちゃ不気味だ。

 

なぜ大多数の日本人はエスカレータに乗るときに、左側に乗るのだろうか。

ほぼ全員が左側に乗っている。

おそらく急いでいる人が通りやすいように、エスカレータの右側のスペースを空けているのだろう。個人個人が右側のスペースを空けていても意味がないので、エスカレータに乗っている人全員が、みんなで協力し合って右側のスペースを作り出しているのである。
 
この日本人の美しい連帯意識が、僕は大嫌いである。
 
エスカレータの美しく整えられた隊列を見るたびに、戦時中に蔓延っていた「日本がやっている戦争は正しい戦争だ」という、いびつな同調圧力と同じ形の異常性を感じてしまう。
 
それに皆が協力して、エスカレータの右側に「急いでいる人用」のスペースを空けていても、実際に急いで駆け上がる人はごく少数しかいなかったりする。朝夕のラッシュ時ならまだ意味があるだろうが、ラッシュを過ぎた時間帯でも、右側のスペースが埋まることはない。
わずか数人の急いでいる人のために、大多数の人々が非効率な仕事を選んでいるのである。まるでどこかの自称経済大国の労働環境のようだ。
明らかに効率が悪い。それなら二列に並んで人数をさばいていったほうが、はるかに効率は上がるのではないだろうか。
 
こういった一見正しいと思えるような行動が、日本をどんどんダメにしていってしまっている。少しでも人と違うことをしたら非難を浴び、長いものに巻かれてしまい、出る杭は打たれる。自分の意見を持つことが許されない社会なのだ。
 
でもそんな社会は人々を幸せにはしない。
今後、日本という国で生活をすることが、日本人にとって幸せであると感じられる国を築いていく上で、自分の意見を人の視線を気にすることなく主張できる社会にすることが、僕は絶対に必要だと思っている。
それがたとえ大多数の意見とは全く正反対の意見だとしても、自分が正しいと思える意見はどんどん発表するべきだ。何も言わないと何も変わらない。
 
そういう社会に変えていくためにも、僕はエスカレータの右側に立てる男になりたい(仁王立ちで)。
 

 

友だち地獄―「空気を読む」世代のサバイバル (ちくま新書)

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同調圧力にだまされない変わり者が社会を変える。

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3.11の赤飯

 3.11の卒業の日の給食に、赤飯を出すことに反発している教師がいるというニュースを見た。

 

 震災と個人の卒業は全く別物である。それを、大の大人が区別をつけず、「不謹慎である」という訳のわからない言説を展開していることに僕は驚愕した。

 

 例えばある年の正月に東京に大地震がきて、大多数の、それこそ10万人くらいの死者がでたとする。そしたら翌年の正月は不謹慎だからお祝いはしないようにしようと言えるのか。そんなことはしないだろう。正月は正月であって、その日に東京に大地震が起きたこととは全く関係がない。

 

 日本人はどうも、パッと見、正しいと思えるような意見をえらそうな顔をして自信満々に言っている人がいると、なんとなく正しいような気がしてしまう癖がある。あまり物事を考えない人たちがそういったはた迷惑な人に賛同してしまう。だけどその意見はよくよく考えると、全く筋の通らない雰囲気だけの意見だということがたくさんある。ちょっと見ただけだと正しいように見えるだけで、よく考えるとおかしいぞ?ということが結構あるのだ。

 

 こういう「ちょっと見は正しそうな意見」に子供の頃から延々と踊らされ続けると、自分の意見を持つことができず、更に周囲に流されやすいという人間が出来上がってしまう。そして実際、今の日本にはこういった人たちが大多数を占める。この大多数というのが厄介なのだ。

 

 回りに流されずしっかりとした意見を持つ人たちが、大多数の自分の意見を持たない人に押しつぶされてしまうことになる。その結果が「3.11に赤飯を出すなんて不謹慎だ!!!」といったような馬鹿な発言を恥ずかしがることもなくしてしまうことになるのだろう。

 

 冷静に考えれば、3.11という日は特別でもなんでもないのだ。その日に卒業する人たちもいれば、その日が誕生日だという人もいる。その日に震災にあった人もいれば、その日が結婚記念日だという夫婦もいる。そういった人たちにとって特別な日であるだけで、国民全体が喪に服さないといけないような日ではない。

 

 おかしいと思うことはキチンと発言するようにしよう。反発があってもいい。大多数の意見と異なった意見だとしても気にすることはない。それは自分にとって正しいと思えることなのだから。周りからはおかしいといわれるかもしれない。それによって自分の意見を引っ込めたくなるかもしれない。だけど何も言えない世の中が当たり前になると、おかしな考え方が、大多数だからという理由だけで蔓延することになる。
それは非常に怖いことで、第二次世界大戦では大多数の意見というだけでたくさんの人々が亡くなっていった。

 

 こういう馬鹿な歴史を繰り返さないためにも、自分の正しいと思う考え方は発言するようにしよう。たとえその意見に反論があったとしても。

理想的な労働環境を勝手に妄想してみた

僕は30記事を投稿するということを、このブログ運営の第一目標にしていた。なのでこの30記事目を、どのようなものにしようか悩んでいた。という理由でほぼ一ヶ月ぐらい、ブログの投稿をサボっていた。

 

と、とにかく(汗)この記念すべき30回目を、日本の労働環境に対する強烈な批判にしようと考えていたが、ここはひとつ発想を変えてみて、「僕が勝手に思っている、理想的な労働環境」 について考えてみようと思う。

 

まず労働時間は一日6時間の労働。朝の8時から12時まで、いつ出勤してもいいフレックス制。昼の休憩はいつでもいけるし、0.5時間から2時間の間であれば好きなだけ取っていい。早く帰りたいのであれば0.5時間。昼をゆっくり取りたいのであれば2時間。とにかく一日6時間働けばいいので、昼休憩の時間は自由に選択できる。

休日に関しては一般的な企業とあまり変わらない、完全週休2日。一日の労働時間は少ないし、休日が2日もあれば、十分リフレッシュできると思う。 しかし今の日本では実質的に見て、たった2日間の休みすら取れない企業は少なくない。

更に、年に二回の長期休暇を各1ヶ月まで、好きな時期に自由に取れる。計2ヶ月。そのほか、有給休暇20日分と病欠用の休暇を20日分。この病欠用の休暇というのは、ヨーロッパなどでは一般的で、人間は病気をするものだという前提で設定されている休みだ。こういう休みがあること事態、海外では労働者主体の労働環境であることが伺える。はっきりいって羨ましい。

 

あとは給与面。上記のような勤務で給与は月に手取りで25万。ボーナス年二回。各2か月分。僕はこれで大満足だ。十分生活できるし、贅沢しなければ家庭を築くこともできるだろう。

 

なぜこのような労働環境を考え出したかというと、日本の労働条件というのは、すべて会社が勝手に決めるものだからだ。労働者が決められることはほんの少ししかない。労働者は何も決めることができないので、企業はやりたい放題の状態だ。だから長時間労働やパワハラ、意味のわからない半強制の飲み会(しかも費用は自分もち)などが横行しているのだ。

 

少しでも労働者側は労働条件を決めることに自由があれば、少しは変わるのではないだろうか。

たとえば、上記にあげた労働条件が、もし仮に日本で一般的になったとしたら、鬱に罹患する人々は少なくなるだろう。無茶な労働をしないので、納得のいかないおかしなパワハラも幾分かは和らぎ、変な人間関係のしがらみなどもなくなりそうだ。さらに休暇が多いので、消費も捗るだろう。そうすれば日本の経済効果も上がりそうだ。家族がいる人なんかは、家族と過ごす時間も増えるだろう。そうすれば心が離れ離れになっている家族なんかも少なくなると思う。

 

もちろんこんな都合のいいメリットだけではないだろう。それにこんな考えは、今の日本のような圧迫された労働環境から生じる反動的な理想論でしかない。

それでも僕はこういう会社があったら入りたいし、少ない労働時間でできる限り結果を出そうとがんばるだろう。それにこういう環境なら全力で働いても鬱になるようなことはなさそうだし、かなり高いパフォーマンスを提供できるような気がする。これは会社にとってもいいことだ。

 

こんな理想論はまず実現しないだろうけど(笑)。それでもなにも言わないよりはマシだ。現実的に実現できなくても、こういう働き方がしてみたいと、とりあえず言ってみる。批判があろうとなかろうと、自分の考えはとりあえず出してみる。

 

それが日本を変える第一歩になるように、僕は思っている。

殺人を犯しても罪に問われない先進国

労働観

過労死過労自殺というものは「殺人」だ。

人を殺した人間や組織は、殺人罪に問われるのは当たり前のこと。

 

だが日本の現状では、過労死過労自殺は法律的に殺人にならない。

それどころか過労で人が死んだとしても、「その責任は企業側にあるのか」ということすら、裁判で争わないと追求できない。

たとえ裁判によって企業側に責任があると判断されても、過労を強いていた人が殺人罪に問われ投獄されることはないし、企業自体のうのうと営業を続けることができる。

 

また死に至らなくとも、心を病んでしまって苦しむ人もたくさんいる。そういった人たちがそのまま社会に復帰できなくなってしまうケースも少なくない。

鬱病などの心の病に関する問題は、企業に責任を追及することすら非常に難しい状況だ。

たとえば労働者が鬱病を発症したとしても、労災認定がおりることは皆無に近い。

 

特に責任を追及されることがないので、企業としては好き勝手に労働者を酷使することができる。

奴隷労働を強要して労働者を潰してしまっても、企業は大した責任を負わなくてもいいのだ。

 

人を殺すほどこき使わないと採算の取れない事業なら、傾き倒れるのが時間の問題であることは目に見えている。それなのにいつまでもダラダラと続け、人の心を啄ばんだ挙句、命まで奪う企業が後を絶たないのは何故なのだろうか。

人を殺してでも続ける価値がその事業にはあるのだろうか。

 

そんな価値などあるわけがない。

 

殺人を犯して人に迷惑をかけてしまう前に、さっさとそんな事業などから手を引いたほうがよっぽどいいに決まっている。

 人を殺すより、会社を潰す選択をとるほうがいいということは、小学生でもわかることではないか。

なぜそんな簡単なことが理解できないのだろう。

 

なるべく早く法律で時間外労働や労働日数などを厳しく制限しないと、企業はどんどん労働者を潰して、使い捨てていくだろう。

人の未来や幸せを奪い取っていくような働かせ方をさせる企業には厳しい制裁を加えるべきだ。

 

人を殺さないと成長できないような、そんな社会など、僕は何の役にも立たないと思っている。

 

 

過労自殺 第二版 (岩波新書)

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働きすぎの時代 (岩波新書 新赤版 (963))

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ホワイト企業が日本の労働観を狂わせてる

労働観

僕は「ホワイト企業」という言葉が大嫌いだ。

「ブラック」に対する言葉として「ホワイト」を選んだんだと思うのだが、「ホワイト」という言い方をすることで、なんだかその企業が特別であるかようなイメージが付いてしまう。

 

逆効果である。

 

ホワイト企業と言われている会社は、別に特別なわけでもなんでもない。本来あるべきカタチの、普通の会社なのだ。

逆にブラック企業の方が特別に異常なのだ。今、日本で普通だと思われている働き方(ブラックな働き方)を従業員にさせている大多数のの会社が、ブラック体質なのである。

 

ホワイト企業という言葉を使うことで、一般的に「あの会社は特別な会社」というイメージを与えてしまい、日本のブラック企業が、「自分たちは『普通の会社』だからいわゆるホワイト企業的な特別な経営はできないだろう」と変な勘違いをするようになる。

 

そういった勘違いが、世間的に一般化しているブラック体質の会社に、自社は「普通の会社だ」といった間違った認識をさせてしまうことになる。

 

 残業させることが当たり前、仕事の内容とおよそ関係のないおかしな研修、行き過ぎたプロ意識を社員に求めるのが当たり前の会社だと思い込んでいるのが今の日本の社会だ。

そういった異常な体質の企業が、あまりにも世間に浸透し過ぎているため、定時で帰ったり、軍隊みたいなパワハラがない会社を特別視するようになった。

 

それがホワイト企業という言葉の中身なのだ。

 

 暴走族に対して、普通にバイクを運転している人々のことを善走族とは言わない。

それと同じで、ブラック企業が特別に異常な会社なのであって、「ホワイト企業」と言われている企業のほうが本来、普通であるべき会社なのだ。

 

日本の労働観がいつからか少しずつ歪んでいき、気がつくと暴走族だらけになってしまった。

そのため普通の会社を特別に取り上げて「ホワイト企業」などとおかしな名前をつける。

そういう風に世間一般の人々を、やんわりと騙すのはそろそろやめていただきたい。

いわゆる「ホワイト企業」だらけの世の中が、まともな社会なのだから。

 

 

 

 

超ホワイト企業の源流

超ホワイト企業の源流